昔から、学生さんと研究室でよく話をしている。
コーヒーでも飲みながら他愛もない話をするのが好きだし、悩みを語り合うのも好きだ。研究室にラグを敷いたりして、少しでも居心地のよい空間になるよう工夫している。これは関西大学の串崎先生の影響だ(といっても先生の研究室にお邪魔したことは1回ぐらいしかなかったような気もする)。
前任校では学生さんが研究室に顔を出してくれたら、仕事はともかく話をするのを最優先にするようにしていた。前任校は国立大学で、1学年につき10人ぐらいしかいなかったからできた芸当なんだろうけど、学生さんとの時間はとても大切で、かけがえのないものだったように思う。
現任校は私立大学で、1学年につき120人もいる。学生と教員との距離が物理的にも心理的にもこれまでと比べて遠く、研究室に学生さんが顔を出すことも減った。
さて、そんな現任校にやって来て初めて、ゼミ選びのシーズンになって、学部2年生さんが研究室訪問をするようになった。
以前のように「いつでも来ていいよ」ではさすがに無理があるように思い、でもふらっと遊びに来てほしい気持ちもあって、研究室訪問のシーズンにあたる2週間の間、自分の空き時間を公開し、それを確認したうえで事前にアポさえとってもらえれば1人でも友達と一緒でも、いつでも来てもらっていい、ということにした。それでも無理があるかなと思いつつ、いったんこの方法で押し通してみることにした。無理なら無理で、その無理を一度体験しておきたかった。
この試みを始めてから、なんだか忙しいな、やっぱりこの方法に無理があったのかなと思い、何人が研究室訪問に来たのか数えてみたら、合計で60名ぐらいだった。
なんだそりゃ。忙しいに決まってるじゃないか。
そこでふと疑問に思った。自分はなぜこのかたちに、こんなにこだわったのだろう、と。
自分のなかを掘り下げていくうちに、前任校にいた頃に築いてきた、学生さんたちやいろいろな人たちとの関係性に、誇りというか思い入れを持っていたんだ、という気持ちに行き当たった。
彼らにたくさん迷惑をかけて、寂しい思いをさせたような気がしていて、そこで育んできたものを新天地で活かしていかないといけないという焦りというか、つぐないのような、そんな気持ちがあったらしい。だから必死だったんだ。
そんな気持ちに向き合いながら、彼らに迷惑をかけた、寂しい思いをさせた、という気持ちを自分が抱え続けて妙に焦っていることが、とんでもない思い上がりというか、彼らの力を信じていないのではないか、と考えるようになった。彼らは彼らで自分の人生を歩んでいるに違いないのに。なんて横柄で、なんて愚かなんだ。自分はいったい何様のつもりなんだ!
そして、ついに気づいてしまった。なんだ、一番寂しかったのは、自分自身じゃないか。なんてことだ! がく然とした。
目の前の方々のために、そして自分自身のために、焦らず前を向いて生きていこう、そう思うようになった。
いい加減夢から覚めて、山口から福岡にちゃんと引っ越そう。いまここを生きていこう。そう誓った。