2016年2月11日木曜日

アクティブ・ラーニングについて思うこと

「アクティブ・ラーニング」は,文部科学省の用語集[PDF]では次のように定義されています。
教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称。学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る。発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である。
教育学にはさっぱり詳しくないのでよくわからないのですが,そもそも教員は学生をactiveにさせることなんてできるのでしょうか?
講義におけるグループ・ディスカッションやディベート,グループ・ワークなどへの強制的な参加がもたらす弊害を,随所で耳にしますが,そもそもグループ・ディスカッションやディベートは学生をactiveにするのでしょうか?
講義内容に関心を持つことができれば自ずと人はactiveになるでしょうし,持たなければpassiveになるでしょう。関心を持てないにも関わらず,activeであるよう仕向けさせることに,いったい何の意味があるのでしょうか? 「その分野に関心が持てない,エネルギーを出せない」ことがわかっただけでも十分に一歩前進なわけで,passiveであることはそんなにいけないことなのでしょうか?
それはただ,教員の都合なのではないでしょうか? 学生がactiveにディベートしている様子を見て,教員が自己満足に陥っているということはないのでしょうか? まるでケンカした子ども同士を終礼時に「お互い『ごめんなさい』って言いましょう」とかたちだけ言わせて問題が解決したと言わんばかりの教員のように。
そもそも「認知的,倫理的,社会的能力,教養,知識,経験を含めた汎用的能力」は大学で育むべきものなのでしょうか? 結果的に育まれることはもちろん大いにあるでしょうが,それを第一の目的とするものなのでしょうか? アルバイトだって,サークル活動だって,普段の友達付き合いだって,恋愛だって,そういう能力を育むはずです。学生の,学業以外の活動を,信頼できないのでしょうか? 「その人が打ち込めること」は大学が用意するべきことなのでしょうか? 学生が,個人が,何に打ち込むかを自分で選び,進んでいってはいけないのでしょうか?
そもそも,その育成を目的とすること自体,あらゆる活動や生活の本分を見失わせるものなのではないでしょうか? 我々にはそんなに能力を鍛える必要性があるのでしょうか? 個人が能力を鍛えないと生きていけない社会こそ悪であり,そもそも設計を間違っているのではないでしょうか?