2018年5月3日木曜日

「専門家」って何なのさ

僕の中でずーっと続いているテーマのひとつが、専門家とか専門性とかって何さ? ということ。

大学に就職してみたり、いわゆる専門家と呼ばれる仕事を現場でしてみたりして、ようやくわかってきたのは、その意味はひとりひとりずいぶん違うらしいということ。同じ言葉を使っているのに考え方がまったく違う人とたくさん出会ってきて仰天したものだ。

だとしたら、自分なりの答えを出すしかないんだけど、最近なんとなくそのあたりが言葉になってきた。

まず自分は、専門家云々以前に、「この人はこういう人だ」というように規定されるであろうフレームを警戒しているところがあるらしい。「心理の専門家だからやさしい人だろう」とか「大学の教員だから真面目なんだろう」とか、そういう目で見られたくない。「結婚はこういうものだ、こうするものだ」とか言われてもピンとこないし、すごく抵抗がある。そこにはどこにも自分がいないし、とても困ってしまう。自分は自分でしかないし、それ以上でも以下でもない。自分を他の誰かのように見ないでほしい、そういう欲求が自分にはあるようだ。それが幻想であることも理解しているつもりだし、そのフレームで受け止められることで得していることが多々あることを理解する程度には大人であるつもりなんだけどね。

じゃあ、自分はどうありたいんだろう? 世の中で言うところの専門家というのは、いろんな意味あいがありそうなんだけど、観察を通して、総じてシュッとしてる人らしいことがわかってきた。利口で、問題を正しく理解して、正解を言える人。困っている人を正しく導いてくれる人。いま流行りの資格論議も、誰がいちばん正解を言えるのか、みたいな話になっているような気がする。

だけど、そもそも人生に正解はないし、嬉しいことと同じぐらい悲しいこともあるし、落ち込むときは落ち込むし、そのどれもが人間くさいように感じる。どんな場面であっても、どんな状況であっても、人生は紡がれていく。「この世界の片隅に」を見ていても、そんなことを感じたよ。

どんな気持ちを持っていても、「ああ、それってわかるよ、そりゃあそんなことがあったらそんな気持ちにだってなるわねえ」と、心の底から感じてそれをお伝えできるような、そしてその方が自分の人生を紡いでいかれるその傍らにいられるような、そんな人に、僕はなりたいんだろうなあと思う。

いくら勉強しても自分にはシュッとしたことは言えんし、とても人を導いていくなんてことはできないけど、そもそもシュッとしていることは自分の持ち味ではないと思うんだ。シュッとしてなくたって生きていけるよ、ぐらいに思っている節が自分にはあるわけで。

ここのところ、こんなことを感じていて、それで「専門家というのはかくかくしかじかができる人だ」というような議論にうんざりしてきているんだろうなあと思っている。